山頂に広がる聖地 モンテ・アルバン遺跡

中米最古の遺跡でマヤ文明も古いといわれている遺跡にモンテ・アルバン遺跡というのがあります。紀元前500年前に始まり紀元800年まで続く遺跡です。盆地の中にある小高い山の上に築かれこの地域の祭祀センターとして繁栄しました。

しかし、ここは盆地の底面から400mという水の確保に向かない立地になっています。ではなぜこのような場所に築いたのでしょうか。

<なぜこの立地?>

先ほども言いましたようにこの場所は水の確保には不便な場所でした。この山が宗教的にも神聖な場所だったためここに祭祀センターを築いたとされます。しかし、直接的な原因はこの地域で勢力争いが起きたことが原因と考えられます。ここが建設される以前、三つの勢力が争っていたようです。この場所はその三勢力の地域につながる三つの道が交わる交通の要所であり、盆地を広く見渡すことのできる天然の要害でした。

モンテ・アルバン以外の集落でも丘の上などを使った防御能力の高い集落が作られていることが分かっています。このように、この地域はモンテ・アルバンが作られた当時にはこの地域の勢力争いが激化していたのです。三勢力の内、どの勢力がここを築いたかははっきりしていませんが宗教施設であると同時に砦のような防衛施設も兼ねていました。

<「踊る人々」の浮彫>

先ほど述べましたこの地域での勢力争いですがそれを物語るものが残っています。それは「踊る人々」と呼ばれる浮彫です。当神殿周囲に置かれており、当初は踊っているように見えたため踊る人々と呼ばれましたが、浮彫の中には首を切られた人や裸にされた人、拷問を受けた人、血を流す人などの浮彫が数多くあったのです。

これは当時モンテ・アルバンの支配者の権力を誇示するのに作られたとされています。それからしばらくして作られる天文台と思われる建造物には壁面に「征服石板」と呼ばれるものがはめ込まれています。これは人身御供を行った人物や征服地、または貢物を送っていたと思われる地名が刻まれています。

<テオティワカンとの交流>

このようになかなか血なまぐさい雰囲気を醸し出す痕跡も残っていますがここには同時期に繁栄したテオティワカンとの関わりを示すものもあります。3世紀頃になるとここではテオティワカンの建築を意識した建造物が作られるようになります。

石碑にも会合を行っている人物の図が見つかっており、兵士をなどの人物が描かれていないことから友好的な外交関係にあったと考えられています。この地域を治めるための同盟関係だったのかもしれません。このため、貴族や有力者の墓からはテオティワカンにかかわる物が出土しているそうです。しかし、この交流はあくまでも有力者だけの関係だったらしく民間の交流があったという証拠はありません。

モンテ・アルバンはその後、最盛期には人口2万5千人まで発展し、盆地全体の人口は8万人まで落ち込みました。このころから貧富の差が拡大していき次第に衰退していきます。9世紀には人口4千人というこの地域の宗教施設としては二流にまで落ち込みました。しかし、その後も維持され続けたらしく、衰退していたにも関わらず建造物の建設が行われていたそうです。この遺跡からはけして平和な暮らしばかりではない、一勢力の栄枯盛衰を感じることができます。

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