親日国タイのルーツである日本人町跡

日本人がタイに観光に行くと、なぜか非常に親切にされることが多くとても驚いたという人がたくさんいます。どうしてこんなにもタイの人たちは,日本人に対して優しいのか。その理由を知ることができるのが、アユタヤにある日本人町跡です。

<かつて2000人もの日本人が住んでいた町>

昔の日本というと,鎖国で他国と交流を一切していなかった,というイメージを持っている人が多いようですが、鎖国開始前の16世紀から18世紀はじめぐらいまでは,かなり積極的に交流や貿易を行っていたそうです。そのころ日本は,戦国時代から安土桃山時代、江戸時代と、非常に情勢が不安定な時代。日本国内に資源が乏しかったため、海外の技術や資源を取り入れようと,各藩の武将はかなり他国との交流に積極的だったようです。そして幕府が許可した正式な貿易を御朱印船貿易(ごしゅいんせんぼうえき)と呼んで、オランダやポルトガルを中心に活発に行っていました。

もちろんタイも例外でなく活発に交易が行われ、御朱印船貿易に携わった日本人たちの一部が16世紀初めに日本人専用の居住区を構え、住み着くようになりました。それが日本人町誕生のきっかけとなり、それから鎖国が始まる18世紀初めまで続きます。町の人口は最盛期には2000人にもなり、アユタヤ同様とてもにぎやかな場所だったそうです。

<ビルマ軍とも戦った侍たち>

ビルマ軍との戦争があった当時、日本人町に生活していた人たちの多くは,大坂夏の陣を終えて職にあぶれてしまった侍たちでした。そのため、ビルマ軍が攻めてきたときには,傭兵として多くの日本人が参戦したそうです。戦乱まっただなかの日本からやってきていた侍の強さは,目を見張るものがあったようで、特に当時の日本人町の町長だった山田長政は,王から官位を与えられるほどの活躍ぶりを見せました。実は,この頃のアユタヤ王朝の兵力はかなり貧弱なもので、このときのビルマ軍の攻撃をはねのけられたのは侍たちのお陰だったのではないか、といわれているほどです。

しかしこの活躍が裏目に出てしまい、一時はヒーローとして称賛されましたがすぐに,「謀反のおそれあり」として日本人町は焼き払われてしまいます。同じころ日本の方でも鎖国が始まって朱印船貿易も廃止になってしまいましたので、新たにやってくる日本人はいなくなり、そのまま日本人町はなくなってしまいました。

<現在の日本人町跡はどこ?>

アユタヤ遺跡のガイドマップにも掲載されている日本人町跡ですが、実際足を運んでみると,草が生い茂った建物ひとつない荒れ地となってしまっています。日本人たちが住んでいた建物は,全て焼き払われてしまったため、当時の生活ぶりを垣間見ることは残念ながらできず、日本人町跡と示す看板がぽつんと立っているのみです。

しかし近くに日本人町の町長だった山田長政についてや、町並みに関する資料などを展示した資料館があります。小さな資料館ではありますが,2007年に修好120 周年を記念して大改修され、今ではかなりその歴史について詳しく知ることができるようになりました。タイと日本の友好の歴史も知ることができますので、ぜひ見に行ってみてください。

ちなみに,アユタヤ遺跡見学ツアーの場合、あまり日本人町跡が組み込まれることはありません。目ぼしい建物もないため、ガイドからもすすめられることが少ないのだそうです。むしろ「何もないからおもしろくないよ」なんて言われてしまうのだとか。しかし,日本人としてぜひ知っておいてほしいことがたくさん学べますので、一見の価値はあるはずですよ。

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